noteの記事を転載しております
2023年11月18日
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
木村伊兵衛という写真家の、
「僕とライカ」というエッセイ集を読んでいる。

1953年という年の写真が多く、ぼーっと眺めているうちにある事に思い当たった。
53年といえば、1930年生まれの私の母方の祖父が23歳の時。
ちょうど今の僕と同じ年頃の時代なのである。

これまで考えもしなかったのだけど、
当たり前だが、祖父にも僕と同じ若者の時代があったわけだ。
僕に幼少期があって、今、青年であるのと同じ様に、
祖父にもそれぞれの年齢の時期があったのだ。
僕にとって祖父は生まれた時から、祖父でしかなかった。

だから、その時点で、既に大層興味を惹かれてしまったのだ。

元々は、木村伊兵衛のエッセイ集だから読み始めただけだった。
最近、写真のことをもう一段、二段深く知りたいと思う様になって、
傑作と言われる写真やそこで使われてきたカメラ、
一例としてライカに興味が湧いたのだ。

だから、ライカ使いの巨匠である木村伊兵衛のエッセイ集だから
興味が湧いただけだったのだ。
しかし、蓋を開けてみたら本来の目的とは
全然違った方向へ興味が走り出してしまった。

長野県松本市にあるお気に入りのパワースポット

あと一ヶ月半程で、今年も年の瀬。
毎年、年末年始は実家に帰ると決めている。
祖父の家に家族全員集まって、静かに年越しを見守る。
昔からNHKの「ゆく年くる年」を見ながら、
近所のお寺の鐘の音を聞いていた。
懐かしい。学生になって、仕事を始めてから、
一年があっという間という感覚が
分かってきた。目まぐるしい日々の中で、
ある意味、日常の中にあるノスタルジックな時間が
僕にとっては年末の数時間なのだ。


狙い通りに撮れた1枚。
プラベートで構図を狙って撮ることはあまりなかったから
撮れた時は嬉しかった。


少し話が脱線してしまった。
いつも祖父と会った時に何を話せば良いか迷っていたけど、
今年の年末は聞きたいことが見つかった。

「じいちゃん、50年代ってどんな時代だった?」
「じいちゃんの20代はどんなだったの?」
聞きたいことは他にもスルスルと出てきそうだ。

「僕とライカ」の冒頭の傑作選の50年代初頭の写真たち。
祖父の年齢と重ね合わせることで俄然興味深い様に思えてきた。

まだまだ、本は読み始めたばかりだし、
本来はライカの魅力を巨匠の言葉で理解したいと思って手に取った一冊だった。
しかし、唐突に興味を惹かれてしまった。

どんなきっかけであれ、自分の国の歴史に興味を持つきっかけになったのは、
自分としてはなかなかない経験だったし、これはこれで面白い。
ついでに写真の勉強が出来れば良いのだ。

この先もしっかり味わいながら読み進めていこうと思う。

それでは、また次回。
2023年5月7日 
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
夕暮れのバスが好きだ。
高速バスといえば、いつもイメージするのは東京行きだった。
大学を卒業する年齢になった今ではすっかり慣れてしまっているけど、
数年前までは、そこに不安とか焦りに似た
純粋で少しザラザラした感覚があった気がする。
それが、どこかサラサラで無感動なものになりつつあるのだ。
けれど、夕暮れの時間に、バスに揺られながら、
周りが畑ばかりの田舎の高速道路から
遠く光る街のネオンや街灯の光を見ていると、
なんとも言えないワクワク感というのか、ヒリヒリ感というのか、
アドレナリンとかカフェインとか
そういう、どっしりとした強さではないけど、
もう少し高音で鮮やかで、追いかけたくなるような感覚に包まれるのだ。
けれど、それは街に着くまでの間だけの感覚だったりもする。
いざ、街についてしまっては、案外、冷めてしまったり、
現実に引き戻されるような気がして、さっきまでの
胸の高鳴りがどこかに隠れてしまう。

思い返せば、いつもそうだったかもしれない。
本格的に面白くなる頃には、
もう飽きてしまっていて、次のもの興味が移っている。
そうやって、気の向くままに見たいものを見てきた様に思う。
こういうのを、刹那的とか感覚で生きているタイプとか、
あるいはセッカチとか言うのだろうか。
果たしてそうなのかも、自分がそうであるのかもわからないけれど、
昔からこんな風に生きているのが僕には心地が良いのだ。

2023年3月30日 
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
こんにちは、むらたゆうきです。

春ってなんだか、毎年そわそわしてしまうし、
浮き足立ってふわふわしていて、
いつもの自分とは違うような気がしてしまいますよね〜。
僕だけなのかしら(笑)
春の独特の暖かさと、
まだ朝夕に冬の寒さが少しだけ残っているこの季節には、
四季の移ろいを肌で感じることができますね。
こんな季節が永遠に続けば良いのになと思ったりもします。
(けど、人間は我儘だからそれはそれで飽きてしまうんでしょうね。
やってられねぇわ)

僕は四季の中で、春と秋が一番好きです。(1位タイ)

この季節はいつも穏やかで、
花粉症なことを除けば、とても過ごしやすくて
まるで全てがうまくいっている様に感じさせてくれるからなのかな
と今は勝手に思っています。
(明日は違う理由で好きかも知れませんが笑)


先日、大学を卒業しました〜!
気づけば、最後の最後まで隣の方とは一緒にいました。
後期試験から始まり、情報、ドイツ語、英語、色々被ってましたね笑

さて、冒頭の雑談はこのくらいにしておいて

今回は、
SNSの好きなアカウントのフォロー欄に
また別の好きなアカウントを見つけたら
嬉しくなったんだよねっていう話を書こうと思います。
(全部言い終わりましたね笑)

SNSと言っても、主にinstagramなのですが、
この人好きだなっていうアカウントのフォロー欄を見たら、
ジャンルは違うけど、また別の好きなアカウントの方が
フォローしていたり、
現実世界でこの人良いなって思っている人がフォローしていたりすると
なんだか急に嬉しくなってしまうっていうことが時々にあるんです。
こういうのってなんなんでしょうね。
別にただの偶然なんだろうし、
特にそれがきっかけで何かが起こる訳でもないのに。
ちょっとにやにやしてしまうんです。

そういう時は決まって、
「嬉しくなっちゃうじゃないか、まったく。」
と、かまされた感を勝手に受けています笑
日中に少し嫌なことがあった日でも、
家に帰ってそれに気づいたら
なんだか良い日だった様な気がしてくる。
むらたはそのくらい
楽天家で脳天気でお気楽なのです。

けど純粋に、素朴な感覚として、
自分の好きな人と好きな人が仲良くしてたり、
素敵だねって思い合ってる様子って
とても良い感じだと思うんです。
SNSだけじゃなくて、もっと大きな枠の中でも
大切な人同士は、僕のすぐ近くでにこにこしていてほしいし、
近くに居れないならどこかで元気にしていて欲しいんです。
それが、今はまだ見えないつながりだったとしても、
どこか分からない所で、
人知れず大きなつながりの中で、
静かに、でも確かに繋がっていれば良いのにな、
なんて思ったりするんです。

そんな取り留めがなくて、呑気なことを
春の暖かさと穏やかさのせいにしながら、
ぼーっと考えていた今日この頃なのです。

いろいろ考えてしまう時や、思い悩んでしまう時、
苦しい時、楽しい時、
笑ってる時、泣いてる時、
穏やかな時も、そう居れない時も。
様々な瞬間が入り混じって、現在を形作っているのだと思います。
様々な物や事の流れの中で、ぐちゃぐちゃにされながら、
それでも、日常に小さな彩りを見つけて
可愛がってあげられる余裕はいつも持っていたいな
と。
今年の桜は、ぼちぼち今週で終わりですかね。
来年の僕はどんな気持ちで桜の木を見上げているのでしょうか。

季節の変わり目です。
皆さんもどうぞご自愛ください。

それでは、また次回。
2023年3月22日
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
こんにちは、春ですね。
ここ1週間くらいで、ちらほら桜も咲き始めた様で、
いよいよ冬が終わって春になっていくんだなという感じがしております。
僕は、茨城に住んで今年で5年目になるのですが、
最初の春にみた千波湖の桜が忘れられなくて、毎年春になると足を運んでしまいます。
初めまして。
むらたゆうき、といいます。
今回は、
ここ最近の僕の変容と昔の僕のことについて書かせてもらおうと思います。

個人的なお話なので、緩めのテンションでいかせてください(笑)
落ち着いてるねと言っていただけることが多いので、そんな感じで。
僕は、1年半くらい前から水戸市の小さなシェアハウスに住んでいるのですが、
そこで一緒に住んでいる住人さん達から、
「最近むらたは変わったよね」と言われることが多くりました。
そちらについて、自分なりに考えたことを書き残しておこうと思います。

僕の住んでいるシェアハウスには、「はなれ」という場所があるんです。 
間取り的な話だと、
よくある戸建ての古めのお家にもう一部屋を追加でくっつけた様な建物です。
母家から短い通路を通って、すぐに出入りできるので、
離れというには近すぎるのかもしれないのですが、そんなイメージです。
うちのシェアハウスでは、その「はなれ」を地域に開かれた図書館だったり、
コミュニティスペースの様に展開しています。
(僕は、この辺りの区別とかには詳しくないので認識があっているのかはわかりません。そりめん。)
そこは、地域に開かれていると言うだけあって、
ほぼ毎日住人以外の方々の利用があるんです。
大学のすぐ近くなので、授業の空きコマでお昼寝をしにくる子がいたり、
レポートを書きにくる学生さんがいたり、
地域のおじちゃんおばちゃんが遊びにきてくれたり、
イベントに参加される社会人の方が来てくれたりなど、とにかく沢山の方に利用していただいています。
そんなシェアハウスの中で僕は、
1年半前に住み始めた時には「はなれ」に殆ど顔を出さない人だった様です。
自室に引きこもりがちで、1人でパソコンと睨めっこしていることが多い人でした。
けれど、最近はどういう訳か、頻繁に現れる様になって普通にお客さんと
コミュニケーションをとっている。
それが、今回書いていこうと思う、むらたの最近の変容です。
(変容なんて大袈裟に言ってみたんですが、カッコつけすぎですね笑)
前置きが長くなってしまいました。
ここからが本題になります〜!
(ここまでで既に800字。文章って難しいのね、、)

既に書いてきた様に、
僕はここ最近でよく「はなれ」に顔を出すようになったらしいのです。
そして、そこで多くの人とお話しできるようになりました。
その原因は、どんなところにあるんだろうと自分でも不思議に思っているのですが、
妙に納得できている部分もあるのです。
それは多分、最近のむらたは素のままに過ごさせてもらっている感じがするからだと思うんです。
これまで、他人と会話をするときって特に意識しなくても、
どこか構えてしまっている自分だった様な気がします。
「この人がどんな人であろうと、こちらはガードを下げないぞ!!」
みたいな。
なんて言うのかわからないけど、そんな固さが自分の中にあって、
その固さや重厚さに自分でも負担を感じていて、
人と話すのがいつからか億劫になっていたのかなと思います。
それが、どんな訳だか最近は、ガード下げまくり。
脇空きまくりで隙だらけな、むらたになっている様なんです。
なんでなのかしら。

今の僕の結論は、
ある種、対人関係で傷つかないことを諦めた。
というのか、
それもまた人生なのかもね。
みたいなテンションになれたからなのかなと思っています。
誰かと話すには、当たり前だけど、お相手が必要で、
その相手と考え方や価値観が違うことって普通にあるじゃないですか。
けど、そういう違いとか小さな違和感をまるっと受け入れてしまうことに
したんじゃないかなと思っています。
(なんだか他人事っぽい書き方ですね、笑)
受け入れるって言ったら、なんだか自分がホストっぽい感じがして
烏滸がましいかもしれませんが、そう言うことじゃなくて、
先入観とか無しにして、
相手をそのまま見つめることにしてみようと思ったのかもしれません。
だけど、それは、自分がどう思われても良いっていうのとは少し違くて、
相変わらず変な風に誤解されるのは怖いけど、
とりあえず自分は相手のことをそのままに、
素の自分で観察してみようって言う感覚なんだと思います。
そうしたら、なんか飾らずに人と話せるようになった気がするし、
色々な人と話すことがプレッシャーにならなくなった気がしているんです。
そんな風に考える様になってから、

そうそう、
昔は人と話すのが大好きだったなあ、とか
知らない大人に絡みに行くのが好きだったなあ
なんて幼い頃を思い出したりもしました。

中学、高校、大学と周りが大人になるにつれて、
どことなく空気を読んで大人しくしていた気がします。


けれど、何となくそうじゃなくても良いんじゃない?っていう様な雰囲気が、
最近の僕の周りには流れている気がするのです。
もしかすると、ずっとそうだったのかもしれないけど、
人前で背筋を伸ばすことに必死だった僕は、
そんなことにも気づけなかったのかもしれないんです。

意外と僕の周りの世界は、緩く居ることを許容してくれているし、
ゆっくり進んでいるんだなぁと感じています。
春だからですかね。
そんな単純な理由でもいいかもなって思えるくらい、
コミュニケーションへの不安感がなくなっている最近の自分を、
結構僕は気に入っています。
でも結局は、
周囲に居続けてくださる皆さんのおかげなのですけどね。
いつもありがとうございます!
それでは、また次回。

Back to Top